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SPECIAL INTERVIEWS

新垣伝さん

「新垣養蜂園」代表 /NPO法人「首里まちづくり研究會」事務局次長

新垣伝 さん (「新垣養蜂園」代表 /NPO法人「首里まちづくり研究會」事務局次長)
17歳へ。

時間はかかっても
なんとかかんとか動いていれば
道は見つかる。

1983年首里生まれ、首里育ち。地元の高校を卒業後、愛知県の大學に進學。福祉施設でのアルバイトをきっかけに介護福祉士の資格を取得し、卒業後も県外のNPO法人で働く。27歳のとき沖縄に戻り、1954年に祖父が創業した「新垣養蜂園」の3代目に就任。人と自然が共生するまちづくりに挑戦するなかでNPO法人「首里まちづくり研究會」と出會い、2015年より首里のまちを花々が咲き誇る地域として再生することを目指す「首里ミツバチ?花いっぱいプロジェクト」をスタート。地域內で生産するハチミツを商品開発や體験観光プログラムの創出に繋げたり、小學校でミツバチを介した環境教育の授業を行うなど、これからの時代に求められる養蜂家を志して地道な活動を続けている。

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    人生の扉を開いたきっかけは? 

    養蜂という仕事に「興味を向けられた」ことが、たぶんスタートです。子どものころからハチはすぐそばにいたんですけれど、興味は全然なくて。「刺されたら痛いし、ちょっとイヤだな」というくらいの印象でした。

    家業を継げと言われたこともなかったので、大學から県外に出て「自由の身だ~!」と思っていたら、25歳のころ、継ぐつもりで家業に就職していた弟が辭めてしまって。「もしかしたら自分が沖縄に帰ってハチミツ屋を継ぐことになるかも知れない」と思い始めたときに、はじめてミツバチの學術書を読んだんです。その當時、世界中でミツバチがいなくなっているということや、世界の食料の60%がミツバチの受粉によって作られていることをその本で知って。ミツバチが減っているのは間違いなく大変なことだし、自然環境やまちづくりと密接に関わる養蜂家の仕事の奧深さを知って、「良い仕事してたんだな、父ちゃん」と思ったことが転機になりました。

  • 7

    知識を身につけたことで役に立ったことは?

    教育という分野に興味があって、いずれ小學校の先生になれたらいいなと思って、大學では小學校教員の免許を取っていたんですが、ミツバチや養蜂家という職業について勉強するようになってから、自分がやりたかった教育の分野でも「養蜂園の仕事を通じてちょっと何かしらできるかも?」と思えるようになりました。

    今まで全然知らなかった世界の知識を得たことで、家業を継ぐことと自分のやりたいことがはじめて重なったというか。「これなら実家に帰れるな」という確信を持つことができました。

  • 7

    今の仕事に就いて、つらかったことはありますか?

    沖縄に帰ってきて3年目ぐらいがピークでしたね。仕事には慣れてきたけれど、給料はどんどん減っていく一方だし、ハチは減る一方で全然増えていかない。

    ミツバチを増やすには「まちづくりが大事だ」と気がついて店先に花を植えてみたりもしたんですが、一人で細々と花を植えても何も変わらないし、一つの店だけでは地域に対する発信力もない。何をやってもダメじゃないか、一人で何かやっても無駄だなって。以前の職場がNPOだったので、自分でもNPOを立ち上げてみようかなとも思ったんですけれど、いろいろ大変そうだし。あれもやらなきゃ、これもやらなきゃとストレスだけがどんどん増えていきました。

  • 7

    そこからどうやって抜け出しましたか?

    なんとかしたいと思って自分から外に出向いていろいろと動き回っていたときに、首里の知り合いのお店の方から、地域のコミュニティ活性化に取り組んでいる「首里まちづくり研究會」の集まりに誘われました。僕はまちづくりの仲間を探していたので、「えっ、そんなのあるんですか? ずっと探してました!」と、參加してみることにしました。

    ただ、歴史のある大きな組織ですし、會員のほとんどが50代以上の大先輩ですから、參加するのはものすごく緊張しました。地域の団體といっても友人がいるわけではないし、ほとんどみんな知らない人だし、人見知りなので最初のころは會合に顔を出すのもきつくて。

    でも、そういう弱い自分とも向き合わないといけないような気がして、それが僕の弱味だとしたら、楽になる瞬間がいつかきっと來るだろうと思って、とにかくがんばって參加し続けていました。

    結局、動き出すまでに2年かかりましたけれど、この會で自分の考えていたことや、地域でやりたいことを話すことができて、そこからまた様々な出會いが重なって、たくさんの人に支えていただいたおかげで「首里ミツバチ?花いっぱいプロジェクト」を始めることができました。

    一人ではできなかったことですし、変な話、今ではこの會でのまちづくりの活動が本業の息抜きにもなっています。

  • 7

    あなたのモットーは?

    僕はいつも「落ちるところまで落ちればいい」と思ってるんです。落ちたら底が見えるじゃないですか、死にさえしなければ。そうすると自分なりに「できること」が見えてくるし、やっぱり「できないこと」もある。落ちるところまで落ちたなかだと、「何か、これはできそうだ」と思うことが逆にわかりますから。

    僕、営業には向かないんです。知らない人や會社に出向いて営業するのは苦手だから、自分が歩くだけで営業になることにしようと思って、會社の経費ではなく、自分でお金を出して背中に「新垣養蜂園」という文字を入れた営業Tシャツを作ったんです。それを著てバイクで街中を走りました。そうしたら、それまで抱えていた「営業が苦手だけど、営業しなければ」というストレスがすっとなくなって。「あ、こういうことなんだな」と。

    それから、考え方が変わりました。苦手なことでもやり方を変えればできることはある。自分に合ったスタイルとか選択肢を見つけるのは、やっぱり時間がかかります。でも、時間はかかっても、なんとかかんとか動いていれば道は見つかる。だから、何かしらのアクションを続けることは大切だと思います。

  • 7

    100年後の沖縄は、どうなっていてほしいですか?

    首里は水が豊富な土地で、琉球王朝時代からその水で泡盛や紅型などの工蕓品を作ってきた土地なので、本當はまず水を守らないといけない。でも今は湧き水も減っていて、水がないがしろにされています。

    琉球時代の暮らしを現代版にするとどういう生活になるかな?と、イメージを膨らませるためにいろいろ調べてみると、昔は木が生活のすぐそばにあって、その木を切って燃料にしたり、住宅にしたりしていた。でも、今はその感覚が全然なくて、材木は輸入だし、木を利用するような生活もない。昔はこの辺り(首里金城町)も全部畑でしたけど、今はきれいに整備された道と街路樹しかありません。

    今、自分がやっていることの一つ一つが全部つながってきていて、最初は「ミツバチのために」「ミツバチを増やしたい」というところから始まりましたけれど、そこからまちづくりや子どもの教育、商品開発や観光プログラムの話にまでつながってきて、ストーリーが見えて來ました。

    たとえば、地域のために1本の果樹を植えて、そこにみんな集まってきたらコミュニティや公園ができて、そこにミツバチがたまたまやってきて受粉をする、そういう世界観で動けたらいいなと思っています。

  • 7

    17歳の自分に伝えたいことはありますか?

    ぱっと思いつくのは、「とりあえず勉強をがんばれ!」かな。勉強っていうのは、本當に重要です。知識を身につけることで、見えてくることがあるので。とりあえず今、目の前にあることを一生懸命やっていれば大丈夫かなと思います。

    あとは、早めに夢を見つけられたらいいですよね。僕は、自分の夢と家業が重なったのは、ミツバチの本を読んだ25歳のときでしたから。早く見つけられた人がうらやましいです。

    小さいころは、軽く「サッカー選手になれたらいいな」くらいの夢はありましたけれど、今思えば、「もっと本気を出せば良かった」と思いますね。「なりたいなぁ」という気持ちはあっても、「やっぱり難しいよね」と、心のどこかでブレーキを踏んでいましたから。

    サッカーの中田英壽さんを見ていても、スポーツと勉學をちゃんと両立されていますし、本気になれば葉わないことはない。本気になれば、全部(の行動)が本気になりますから。ブレーキを踏みながら、夢は追えないと思います。

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